『マイ・プライベート・アイダホ』(1991) - My Own Private Idaho

透明感を持ちながらも、どこかに泥団子のような何かを隠し持つ、少年のような登場人物たち。家庭環境や年齢はすでに免罪符にはならない。それは監督の作品『パラノイドパーク』や『エレファント』とも通じるものが

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■ マイ・プライベート・アイダホ - My Own Private Idaho – ■
1991年/アメリカ/102分
監督・ 脚本:ガス・ヴァン・サント
製作:ローリー・パーカー
撮影:エリック・アラン・エドワーズ、ジョン・キャンベル
音楽:ビル・スタッフォード
 
出演:
リヴァー・フェニックス(マイク)
キアヌ・リーブス(スコット)
ウィリアム・リチャート(ボブ)
ジェームズ・ルッソ(リチャード)
キアラ・キャセリ(カルミラ)
ウド・キア(ハンス)
フリー(バド)
ロドニー・ハーヴェイ(ゲイリー)
ジェシー・トーマス(デニス)

解説:
鬼才ガス・ヴァン・サントの長編映画第2作。一風変わったロード・ムービーとも言える様相を呈した本作は、“家庭”とアイデンティティを求めて旅する姿がテーマなのだ。監督のガス・ヴァン・サントは、眠りに落ちたマイクの夢に常に母親のいる優しい家の情景を登場させ、この“家への回帰”というテーマをファンタジックにかつ詩的に描いている。

あらすじ:
ストリート・キッズのマイクは、ポートランドの街角に立ち、体を売って日々を暮らしていた。彼には、緊張すると眠ってしまうという奇病がある。そんなマイクの親友は、ポートランド市長の息子でありながら、家を飛び出し、やはり男娼をして生きているスコット。ある日マイクは自分を捨てた母を捜す決意をし、スコットと共に、兄リチャードが暮らす故郷アイダホへと向かう。手掛かりを追ってスネーク・リバーそしてイタリアまで旅する2人。しかし2人はイタリアで、お互いの進む道の決定的な違いを知らされる ―

(allcinema)


明日から公開予定の『追憶の森』監督ガス・ヴァン・サント氏。
昨日たまたま観た『マイ・プライベート・アイダホ』が同監督の作品とは知らなかったが、よくよく調べてみるとこの監督作品を案外観てた。
中でも『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』は純粋に感動できる内容の作品である。反対に『パラノイドパーク』や『エレファント』は登場する少年らの平凡な毎日に家庭環境やナイーブな心理状態を映し出しつつ、彼らの透明感は失われないまま、少しずつ歪みながら壊れていく様を描写。静かながらもその怖さに目が離せない作品だ。
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本作『マイ・プライベート・アイダホ』は上記の作品とも違って、少年時代を卒業し大人の年齢になろうとする登場人物たちの、もっと現実味を帯びたリアルな毎日が描かれる。彼らの家庭環境は様々だが、概して彼らはその日暮らしであり、“今”の事しか考えられない。

そんなグループの中で将来について考えることが出来るスコットと、過去とナルコレプシー(発作性睡眠障害)に囚われたままのマイクが主人公だ。主人公たちも同じくその日の食事代を稼ぐために街角に立つ。その事については「何も」感想を持たない彼ら。あまりに普通の日常の中の出来事であるから、あからさまに他人に話すことも出来る。
それは無知からきているのか?それとも何か心の一部に蓋がされているのだろうか?
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マイクの通過地点は常にアイダホのカントリーロードだ。
彼の前に続くのは人っ子一人、車一台通らない果てしない道。彼はここで親指を立てるのでもなく、ただ立ち尽くし考える。
「俺にはこの道がどこだか分かる。」
この道の出発点がどこで、この道がどこに続くのかを彼は知っている。行き着く先はもう充分見たから、彼は出発地点について考えたい。いや、ずっと考えてきた。
彼の出発地点 ― 母親について
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彼は母親のことを考え始めると胸が痛くなる。そう多くない母親の記憶。古い家の前で幼い自分を抱っこしてくれている母。母はいつも笑っている。いつも幸せそうだ。なのにどうして幼い自分を施設なんかに入れたのか?
この記憶のかけらと疑問が頭にもたげ始めると、途端にマイクは発作を起こして、その場に倒れ眠り込んでしまう。これが彼の持病であるナルコレプシーだ。時間も場所もお構いなしに起きるこの持病で、事故にも遭わずよく生きてこられたと感心しながら、彼を安全な場所まで運ぶのはいつもスコット。マイクの精神安定剤でもある。

このスコットの力を借りて、マイクはとうとう母親探しの旅に出ることに。それはまるで母を訪ねて三千里のような旅になった。そして同じくどこまで行っても母には会えない。イタリアの民家で「ママ、ママ」と探し回るマイクは母親と別れた当時の幼児そのままだ。当時は何も分からなかっただろうが、今は全て分かる。探しても、名を呼んでも、実態の無い母親。それに加えてスコットさえも失ったマイクの悲しみと孤独はどれほどだっただろうか。
だが彼は表には出さない。スコット以外には ―
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マイクがいつも戻るアイダホの果てしない道。
彼の出発地点は母親では無く、この道であったのかもしれない。そこに何度も戻るのは、また一からやり直したいためである。この地点では彼にはまだ「何も」起きておらず、ぼんやりとしたものであっても少しは将来のことを「良いように」想像することが出来る。
この道をスコットのバイクの後ろに乗り走ったことが彼の唯一の良い思い出なのかもしれない。

だがスコットは実在したのだろうか。
マイクは果たして無事に今まで生きてこれたのだろうか。

冒頭、この道で倒れ込み、道の真ん中で眠り込んでしまったマイク。もし彼の人生がこの時点で終わっていたとしたら。何度も何度もこの地点に立ち、今までの事やこれからの事を思慮深げに考えようとしては倒れ込む、そんな地縛霊のような存在になっていたとしたら。

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だって私にはとても彼らが母親を探してイタリアに行ったとは思えない。あまりに浮いているのだ、彼らの存在が。まるで絵はがきに付け足したようで、なじまず現実味が無い。何より母親の行動は、まるでほとんど「母を訪ねて三千里」で、これはきっとマイクが幼い頃に読んだ物語をそのままなぞっているのだろう。
そして「スコット」とはマイクのこうありたい、こうあれば良かったという夢のような存在で、子どもの頃から考えていた「こうありたい自分」の象徴なのだ。一時は自由に街で生きたとしても、いつかは元のまともな場所へ帰り、世のために仕事をして生きていく。横には淑女な妻と愛らしい子ども。決してマイクが持っていなかったもの。今後も持つことがないもの。

「何も持たない男」といえば先日の『ダーク・ブラッド』のリヴァー・フェニックスの役どころも同じであった。これが彼の現実だったのか、目指すところであったのかは、今となっては分からない。
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