『聖なる犯罪者』 (2019) - Boze Cialo

決してふざけた詐欺師のお話ではなく、過去に犯した罪のせいで聖職につけない青年が、田舎の小さな町でたまたま司祭になってしまって、心底、司祭のお仕事をしてしまったお話。主人公の言葉少なな表情がとてもよくて、それだけで話に入り込むことが出来る作品。

■ 聖なる犯罪者 - Boze Cialo – ■
2019年/ポーランド・フランス/116分
監督:ヤン・コマサ
脚本:マテウシュ・パツェヴィチュ
製作:レゼク・ボザック他
撮影:ピョートル・ソボチンスキー・Jr
音楽:エフゲニー・ガルペリン他

出演:
バルトシュ・ビィエレニア(ダニエル)
アレクサンドラ・コニェチュナ(リディア)
エリーザ・リチェムブル
レゼック・リコタ
ウカシュ・シムラト
トマシュ・ジェンテク
バーバラ・クルザイ
ズジスワフ・ワルディン

■解説:
過去を偽り聖職者として生きる男の運命を描き、第92回アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされたポーランド発の人間ドラマ。主演のバルトシュ・ビィエレニアが、少年院出身のダニエルと司祭トマシュという正反対の人物像を緊張感たっぷりに演じる。監督は「ヘイター」「リベリオン ワルシャワ大攻防戦」のヤン・コマサ。

■あらすじ:
少年院に服役中のダニエルは、前科者は聖職に就けないと知りながらも神父になることを夢見ていた。仮釈放され田舎の製材所に向かう途中、ふと立ち寄った教会で新任の司祭と勘違いされ、司祭の代わりを命じられる。村人たちは司祭らしからぬダニエルに戸惑うが、徐々に彼を信頼するようになっていく ─

映画.com

誤って人を殺してしまったダニエル。少年院の仲間たちとも今一つそりが合わず、彼の唯一の慰めはトマシュ神父の説教の時間だった。自分も聖職の道を目指したいと神父に相談してはみたものの、前科のある者にはその資格は与えられない、人のためになる道は他にもある、と言い聞かされるのだった。

仮出所が決まったダニエルは、今までの他の少年たちと同じく田舎の製材所で働くためにバスで郊外を目指していた。周りには何もない見知らぬバス停で降車したダニエル。製材所に向かってはみたものの、働いている男たちがいかにも少年院上がりの風体で、ふと踵をかえしてしまう。そして、その先に見えたのが小さな町の教会の尖塔だった。

少し考えるために教会のベンチに腰をおろし、前に座っていた女の子に話しかける。たわいもない話の中でなぜか自分は”司祭”だと言ってしまった彼は、昨日盗んだ司祭のカラーまで見せてしまう。司祭だと信じた女の子にその教会の司祭を紹介され、一晩泊めてもらえることにまでなった彼。だが、その司祭が翌日急病で倒れてしまい、しばらく教会を任せたいのだが、と言われてしまう。ダニエルの嘘がそのまま独り歩きを始めてしまうことになってしまった。
窮地に立たされた彼。一瞬困ったような表情になったものの、彼はすぐに気を取り直し落ち着いて答えたのだ。「数日なら」と。この時、独り歩きしだしていた”嘘”は、彼の”真実”になろうとしていた。


最初は若く、軽薄なイメージの主人公。だが物語が進むうち、というよりバスから降りた頃には、若いにしては色々と考えるタイプなんだなってことが分かってくる。とはいえ、ただ、製材所のむさくるしい男たちとの体力仕事が嫌なだけだったのかもしれないが…。

線が細く神経質でありながら、情にもろく、すぐに相手の気持ちに寄り添うことが出来る彼は、案外、聖職に向いているのかもしれないと思いつつ見ていくことになるが、全ては嘘から始まっている話だから、いつバレるのかとひやひやしてくる。それほどに主人公に入り込める。町の住人達もそれは同じで、彼の説教を聞き、毎日の行動を見るうちに信頼を深めていっていた。

そこで起きるある事件。
まだ若い彼が、自分の親ほどの年代である町の住人相手に、自分の正義を押し通す。
「正義」とは何か?
彼は聖職者だ。人はみな平等で、罪を犯したとしても祈ることによって神にゆるされ祝福される権利がある。罪の中身でそれを区別することはできない。みな平等なのだ。起きてしまったことを無かったことにはできない。だが神はゆるす。”ゆるし”とは”愛”であり、愛することでゆるしを与え、ゆるされるのだ。

これは、少年院で受けたトマシュ神父の説教だ。ダニエルはこう言いたい。自分は罪を犯したが、ゆるしを得るために祈り、隣人を愛するよう努力してきた。仮退院が出来た今、自分はゆるされたのではないか?なのになぜ、聖職につけない?何が、何と何を区別して聖職につけないというのか?神はゆるしてくれたというのに、なぜ教会は拒否するのか ─

町の人々も同じだ。原因がはっきりしない車の事故で、若者たちが一方的に被害者になり、相手の男性が完全な加害者として死んだ後も糾弾される。皆、教会の信者であるはずなのに、自分に重ねて納得できないダニエル。その声なき叫びは住人たちに届いたであろうか?
だが、実は自分は司祭ではない。
“導き”とは、”教会”とは、”神”とは、いったいなんだろう?”信じる”とは?


管理人はキリスト教信者ではないし、何かを信心しているわけでもない。けれど、時々感じることがある(深く考えているわけではないけれど)。なぜ、キリスト教が信じられている国で死刑があるのか?殺人が起きるのか?犯罪が起きるのか?隣人を愛し、罪を憎まず、祈ることで許されるのでは?
なんか、、間違ってるかな、わたし……

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