『私が、生きる肌』(2011) - La piel que habito –

現代のフランケンシュタイン博士。
彼も怪物を愛したのではなかったか-

La piel que habito_00
■私が、生きる肌 - La piel que habito -■
2011年/スペイン/120分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル、アグスティン・アルモドバル
原作:ティエリ・ジョンケ「蜘蛛の微笑」
製作:アグスティン・アルモドバル、エステル・ガルシア
撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ
音楽:アルベルト・イグレシアス
 
出演:
アントニオ・バンデラス(ロベル・レガル)
エレナ・アナヤ(ベラ・クルス)
マリサ・パレデス(マリリア)
ジャン・コルネット(ビセンテ)
ロベルト・アラモ(セカ)
ブランカ・スアレス(ノルマ)
スシ・サンチェス(ビセンテの母親)

解説:
アルモドバルが辿り着いた最高傑作であり、
誰も観たことのない究極の問題作。

『オール・アバウト・マイ・マザー』『トーク・トゥ・ハー』『ボルベール〈帰郷〉』のアルモドバル監督が、愛に狂わされ、神をも恐れぬ禁断の実験に没頭する男と、このうえなく数奇な運命をたどるヒロインの姿を、めくるめく官能と戦慄に彩られた映像美の中に紡ぎ出す。これは崇高なる愛の奇跡か、狂気に駆られた悪魔の所業か。すべての答えは、この問題作のあまりにも数奇な全貌を見届けた観客に委ねられている。
 (公式サイト:私が、生きる肌)
 
あらすじ:
La piel que habito_01トレドの大邸宅に暮らすロベル・レガルは、最先端のバイオ・テクノロジーを駆使した人工皮膚開発の権威としても知られている世界的な形成外科医。そんな彼が自宅の一室に‘患者’として半ば幽閉している美女ベラ。ベッドとソファ、テレビがあるだけの広い部屋で、肌色のボディ・ストッキングを全身にまといヨガのポーズをとる彼女。
隣りの部屋から監視するようにモニターに映る彼女を見つめるロベルに、一体どんな思惑があるのか。そして彼女の秘密とは-

英題:The Skin I Live In


 
科学者として研究する者として出来るかどうか‘やってみたかった’のが1800年代のフランケンシュタイン博士だとすれば、本作のロベル・レガル博士は成功する事を確信した上での行いということで、罪は深い。
タイトル『私が、生きる肌』から、ミステリーホラーなのかなーと思って観始めた。
 
人工皮膚開発の権威ロベル・レガル博士。事故や火傷などが原因で皮膚を大きく損壊した患者の手術、治療に当たる。トレドに大きな屋敷を構えており、数人の使用人と一緒に住んでいる。妻を10数年前に事故で亡くし、その後一人娘も亡くしている不幸な境遇。使用人の一人マリリアはが子供の頃から屋敷に勤める女性で、母親のような関係だ。
その大きな屋敷の2階にある一室。
La piel que habito_13扉は外から鍵がかけられ、中から開けることは出来ない。部屋は広いが、ベッドとソファ、テレビがあるだけで、だだっ広い病室のようだ。壁には監視カメラ、小さなエレベータが食事を運ぶ。
その部屋に幽閉されているのは一人の女性ベラ。
全身にボディ・ストッキングをまとい、読書やヨガで時間を潰す。ちょっと見た限りでは、どこも悪くはなさそうだ。しかし定期的に部屋に来るロベルは彼女を診察。皮膚の状態を丹念に診る。
いったい彼女の皮膚に何が?
 
La piel que habito_10妻は車の事故で大火傷を負い、それが原因で亡くなったということだ。ベラも火傷を負って治療している途中なのか?
それとも、もしかしたら実はこの女性ベラは妻なのか?
この屋敷の一角では、完全な機器が揃っている博士の研究室があり、どうやらそこで人工皮膚を培養しているようだ。研究に励む博士。しかし、その後ろにちらっと映る「横たわる女性の裸体」。
ちょっと、ちょっとーこれは、かなりまずい、危ない状況なのではないか
そして、このピンと張り詰めたような空気漂う屋敷に、野獣のような(実際、着ぐるみのような格好で登場)マリリアの息子セカが乱入してきたことにより、事態は大きく動いていく-

 
 
ここからはネタバレが入る可能性があります。未見の方はお気を付け下さい。


本作のキャッチコピーは

あなたは、
これを愛と呼べるか――

 
ロベルはベラを愛していたのか?
La piel que habito_02人が人を愛するといった意味では、違うと思う。博士が愛したのは自分の完璧な「作品」であり「創造物」。よって愛したのは自分の腕前だろうと感じる。だからといって決して心のない冷たいマッド・サイエンティストとは言い切れない。乳母のようなマリリアには優しく愛情をもって接している。
ロベルが趣味の盆栽をいじるシーンがある。幹に針金を巻き付け、時間をかけて自分の思うように曲げていくその手法を見て、あぁ、この人は自分の考える完璧な形を作る過程とその結果が好きなんだな、と。
 
それでは、妻と娘は愛していたのか?
充分な愛情があれば、妻はあんな下品で粗野な犯罪者と駆け落ちなどしないだろう。娘は、、。娘は可哀想にあまりに世間知らずであるために、おそらく父親に決められ着せられたハイヒールと上着を男の前で脱ぎ、あんな結果になってしまった..。
娘が入院した精神科の主治医に「父親がついていながら..」などと言われたロベルが必要以上に腹を立てたのも、自分の作品が失敗だと言われたように感じたからではないか。
 
La piel que habito_15ビセンテは利口な青年だが、ひつこく女性に言い寄ったり仕事を途中でほっぽり出すなど無責任なところがあり、母親への依存心が高い。そういったいい加減な性格が災いした今回の出来事だったが、あまりにその代償は高かった。一連の経過を見ていて人ごとながら、その絶望感を思いゾッとした。
ロベルにとっては最大の復讐であり、最大の実験だったことだろう。

La piel que habito_16そしてもう一人の母親マリリアは、二人の息子をきちんと育てられなかった。事情があったとはいえ、犯罪者の道を進むまだ幼いセカを見捨ててスペインへ渡り、もう一人の息子の近くにいながら人の道を外れることを阻止できなかった。
愛情溢れる言動が多いように見えて、実は一番心の冷たい自分勝手な人なのではないだろうか。

 
ビセンテは最後母親の店に戻る。この物語に出てくる唯一の善人、常識人とも言える母親とそれを手伝う女性。二人は暖かくビセンテを迎え、もしかしたら同性愛者の女性とビセンテはこの後、カップルになり幸せになるかもしれない。
「よかったねー、ビセンテ」と一瞬思ったが、騙されてはいけない。本作は罪を犯した者を決して許してはくれないのだ。
ここで思い出したのが人間ではない「動物の血」をも使って培養され強化された皮膚。ビセンテが店へと歩く途中で豚に変身していくのではないかと思ったのは内緒だが(ファンタジーじゃないんだから)、今後、ビセンテに何も起こらなければいいが。
もう診てくれる人はいないんだから-
 
ではまた
 


 

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 私が、生きる肌

     あえて恐れずに言うならば…ただの変態映画。
     
     
      私が、生きる肌(2011年 スペイン映画)   60/100点
     
     
     
     うーん。
     衝撃的な映画だ、今世紀最大の問題作…

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